5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

1989年2月9日、巨星墜つ・・・。

1 :日本人 :2000/10/22(日) 19:49
「漫画の神様」手塚治虫先生の訃報が日本中に衝撃を与えた、
平成元年初頭のあなたの思い出を教えてください。


2 :日本人 :2000/10/22(日) 19:52
とりあえず私の場合、手塚先生がいなくなってしまって、
これからの日本はどうなってしまうんだろう、と真っ暗な気分になった。
そういう思いをさせるのも当然の存在だった。

3 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 19:55
そりゃ言い過ぎ。
ってかネタスレか。

4 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 19:57
漫画キャラの死よりも漫画家の死のほうがショッキングだったな。
なに当たり前のこと書いてんだオレ?

5 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 19:59
生手塚先生に会って、お話がしたかった。
亡くなられた当時はさしてファンでもなかったので
何の感慨もなかった。今はそれが悔やまれる。
エロ同人誌とか集めてマニアな自分に悦に入っていました。
「手塚?ふーん。関係ねえな」って感じで。最悪。逝ってよし。
今思えばせめて御葬式にでも…うう。
あのころはガキだったんです。マジで悲しい。

6 :日本人 :2000/10/22(日) 20:18
>3
いや、大仰すぎるってのは自分でももちろんわかってるんだけど、
あの時は個人的には本当に、ショックでそのくらい思ったのだよ。
後年、司馬遼太郎とかが亡くなったとき同じような感想を言ってた
オヤジたちも多かった。まあ、世代にもよるけど、そういう気持ちに
させる存在だったことは間違いない。

7 :リハク :2000/10/22(日) 20:23
巨星墜つ・・・か・・・

8 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 20:23
そういや昭和天皇が1月7日に死去してすぐだったね、
手塚の死で昭和が終わったと実感したよ

9 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 20:23
あのいしかわじゅん氏が「フロムK」の一回分をまるまる使って
追悼マンガを描いてたのが、ワタシ的にはかなり好感度アップだった。

10 :名無しさん :2000/10/22(日) 20:36
てゆーか、なんで今ごろ?


11 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 20:45
もう11年経つんだね。こうしてスレ立ててもらうまで忘れてた。
まだ消防だったけど、ショックだったなぁ。
数年前に伊勢丹でやった手塚治虫展を見て、ほんとにこの人は
漫画に人生賭けてたんだなあって実感したよ。

当時の思い出じゃなくてスマソ。

12 :花と名無しさん :2000/10/22(日) 20:49
どうせスレ建てるなら手塚先生の命日にすれば良かったのにぃ。

その日、出先から帰ってくると「手塚治虫が死んだって!!」と
母親が教えてくれて、ビックリして夕刊見たらでっかく載ってた。
その時は「ああ…遂に死んじゃったのかぁ…」と思ったけど、
暫くして「もう手塚先生の漫画読めないんだなぁ」と気付いて
なんだか泣けた。

13 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 20:50
まず「火の鳥」の事が浮んだな。

14 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 21:09
私の場合@`藤子・F・不二雄の方が衝撃だったなあ。

15 :優しい名無しさん :2000/10/22(日) 22:53
「グリンゴ」の続きが気になるよう 

16 :勝ち組 :2000/10/22(日) 22:58
グリンゴも好きだが、もし絶筆になってしまったのが「アドルフ」や
「陽だまり」だったとしたら・・想像するだに恐ろしい


17 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 23:29
もう漫画家で国民栄誉賞もらえる人はいないでしょう、
何たって、手塚治虫が貰えなかったんだから

18 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 23:30
いまだに長谷川町子が国民栄誉賞で手塚治虫がそうでないのが納得いかず。
サザエさん1本でもらえるなら、石森も藤子も手塚もそうだろー

19 :魁!名無しさん :2000/10/22(日) 23:31
国民栄誉賞は糞。これは定説。(手塚がもらえてても)。

20 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 23:34
>>18

手塚は政治に関わったこともあるからな。それが響いたのかも。
(関わりもったのが共産党だったし。政府関係者としてはあんまりやりたくないわな。〔笑〕)
俺が納得いかないのは、むしろ藤子F不二雄のほうだな。
ドラえもんの影響力はハンパじゃないぞよ。国際的にも。

21 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 23:35
実感なかったねぇ。ホントに雲の上って感じで。

22 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 23:40
>>16
すまん、ドキュソなもんで意味がわからん。
もちっと、丁寧に書いてくれ。

23 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 23:45
天皇陛下崩御ははっきり覚えているのだが、手塚先生ははっきりと覚えてなかった。
まだ、アトムくらいしか読んでなかったからな…
後に、火の鳥に触れて、亡くなられたことの大きさを思い知る…

24 :ああっ名無しさまっ :2000/10/22(日) 23:52
天皇が死去したときは、酒呑んでた。
自粛ムードなんて無かったぞ。

25 :魁!名無しさん :2000/10/22(日) 23:53
ファンレターにちゃんと返事書いてたって本当なの?

26 :TTTT :2000/10/22(日) 23:58
 その年のコミケ35で、12時を期して1分間の黙祷がありました。
それまでの7万人の喧騒が一瞬にして静寂に変わりました。
当日の第1報より、こちらの方が大きな思い出です。

27 :魁!名無しさん :2000/10/22(日) 23:59
初期っしょ。ファンレターに返事は。(まんが道参照)

28 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:04
売れてからのファンレターは、印刷で済ましたらしい。
それでも、すごいが。

本多勝一が、子供の頃、きちんとファンレターに返事をくれて感動したと
書いていた(俺は、本多が大嫌いだから、誤解無いよう)

29 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:07
当時本屋でバイトをしていたのだが、死ぬと同時に手塚作品を
買い求めに来る客がわんさか現れて大変だった。小さい本屋だったし、
今どき手塚作品なんかそんなに置いてないってーの。
あの頃は天皇崩御関係本やら消費税導入やら「一杯のかけそば」
ブーム(笑)やらで大変だったなあ…。

30 :ああっ播磨灘っ :2000/10/23(月) 00:09
手塚先生の逝去の後、堂々と手塚氏のアニメに関する批判を述べたのは宮崎駿氏でしたね。
まあ手塚氏のアニメ界に与えた鋼材を考えると批判は的を得ているのかもしれませんが、
何もあんな時に・・・

31 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:10
小学校低学年だったもんで、覚えておりません。

32 :校正 :2000/10/23(月) 00:16
>30
鋼材→功罪
的を得る→的を射る、当を得る

33 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:16
確か三井物産(でしたっけ)の若王子さんの死亡日と重なっていました。
新聞によっては若王子さんの方が扱いが大きかったような・・・

34 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:18
>30
アニメに関しては手塚さんの言ってたことは全部間違いだった、とか言ったらしいですね。
まあ、なんというか・・・

35 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:23
当時は余り興味がなかったので、余りショックを受けなかった。
というより恥ずかしながら手塚漫画を読んだ事がなかった。
今じゃ考えられない。

国民栄誉賞の話が出てるけど、手塚先生はブラック・ジャックの中で
同賞をボロクソにけなしてる。ひょっとしたら受賞の話はあったのかも
しれないが、関係者が断っていたという事も考えられる。

36 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:23
そうそ、若王子さんと同じ日。

37 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:33
DAICONWで手塚先生と偶然にエレベーターに
乗り合わせてサインをいただいたことがある。
それから5年後に先生が亡くなってしまうとは
あの時は思いもよらなかった・・・・・。

38 :魁!名無しさん :2000/10/23(月) 00:34
>37
うらやましすぎるよ。あんた。

39 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:35
人間が亡くなって、初めて泣いたのが手塚治虫氏だった。
脱力感もそりゃもうひどいものでした。

つくば万博の「新聞館」でお会いできたことは
一生の想い出です...

40 :ひもとひとし :2000/10/23(月) 00:38
1です。日本人(ひもと・ひとし)ネタは大失敗だったと深く
後悔しつつ戻ってきたらこんなにもカキコが!! うれしいです。
’80年代半ば、手塚先生が『アドルフに告ぐ』を大ヒットさせて以来、
マンガのハードカバーブームが起きて、代表作が次々と復刻されたんですよね。
後に文庫化で大ヒットした『ブラック・ジャック』の「豪華版」や、
映画化で沸いた角川版『火の鳥』のあと、何度めかの手塚ブームの只中で
亡くなられてしまったのは、本当に惜しい限りでしたね・・。


41 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:39
バイトで中学生の塾講師やってるけど、
ブラックジャックは、いまの13歳の子供たちも夢中で読むぞ。
すごいよね。

42 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:45
よくいわれるけど、『ブラック・ジャック』の豪華版=文庫版は、
最初はたしか手塚先生の自選だったはず。でも、あんまり売れたので、
作者の死後もどんどん続刊して、順序はメチャクチャなのにほとんどの
話が入ることになってしまった。なんで最初から全話収録で
出さなかったのか・・。


43 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:46
アシスタントに梶原作品を読ませて
「君達、これのどこが面白いのかおしえてくれたまえ」
とかって言ったとか。

44 :名無し秋刀魚 :2000/10/23(月) 00:51
確か朝日ジャーナルで「ファウスト」を連載してましたよね。
その続きが読めなくなって、更に朝ジャの追悼特集の表紙を見て、
「ああ、本当にいなくなってしまったんだな」と思った記憶があります。




45 :魁!名無しさん :2000/10/23(月) 00:51
手塚に逆恨みされる作品は傑作の証。

46 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 00:59
当然ですけど、マスコミの追悼報道がものすごかったですね。
氏の写真を表紙に掲げた雑誌も多々ありました。
マンガ家に限らず、文化人一般としても類がないと思います。
藤子F氏や石ノ森氏の報道の時は、もう少し大きくとりあげても
いいのでは?と思ってしまったものですが・・。

47 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 01:01
>>45
そだねー。逆恨みっていう言い方はおかしいと思うけど…。
この場合「嫉妬」の方が当たってるのでは。
でもそれって、手塚氏が誰よりも面白い漫画を描こうと
足掻き続けて努力しようとしたからだと思うっす。
ま、ファンの贔屓目ですけどね。(^^;


48 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 01:15
手塚治虫って実は物凄く小心で嫉妬深い人間だったみたいですね。
あのベレー帽をかぶった温和な笑顔のイメージしかなかったから、かなり意外だった。

>アシスタントに梶原作品を読ませて
>「君達、これのどこが面白いのかおしえてくれたまえ」
>とかって言ったとか。
このエピソードは「あしたのジョー」のことですね。「あしたのジョー」が爆発的に
ヒットした時に手塚氏はスランプ状態で、自分の作品が受け入れられないことに
対してかなりヒステリックになっていたみたいで、泣きながら喚いたとか。

うーん、やっぱアーティスト気質というかなんと言うか・・・。



49 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 02:21
>48
梶原は「巨人の星」じゃなかったでしたっけ? 嫉妬したといえば
あと石森章太郎の「ジュン」とか、大友克洋とか有名ですよね。
楳図かずおもそうだな。あと「鬼太郎」に対抗しての「どろろ」とか、
いくらでも挙げられそうですね。

50 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 03:18
生前ずっと「大正15年生まれ」と公称してたのに、訃報記事ではじめて
「昭和3年生まれ」と出て驚きました。「まんが道」とか読むと、
藤子不二雄F・A両氏よりわずか5、6歳年長にはとても見えません。

51 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 03:22
>>42
いや、今後『<完全版>BLACK JACK』とかいう文庫本が
出ないなどと、誰が言いきれるだろう。

52 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 03:27
先生が亡くなった翌日のワイドショーでもこぞって特集が組まれて
いたが、どの番組でもアニメ「火の鳥」の一場面、
炎に包まれて死に行く人が「私は生まれ変わっても人間になりたい!」
「駄目です。お前は小さな魚になるのです」(うろ覚え)を放送
していたのがショッキング…というより痛くてたまらなかったです。

53 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 03:31
茜丸

54 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 04:27
>22
俺は分かるぞ16の言ってること。
「アドルフに告ぐ」と「陽だまりの樹」は晩年の手塚作品の中では
重要な作品だからな。この2つの作品がなかったら、
もしかすると本当に手塚は過去の人になってたかもしれない。
遅レスですまぬ

55 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/23(月) 04:31
日本テレビでは映画を急遽さしかえて、「火の鳥」を放送したんだっけ。

56 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/23(月) 04:38
>>30
こういうときにはやっぱ、なんだかんだ逝っても岡田斗司夫氏の文章とその電子ライブラリ化は役に立つ。感謝。
www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakugaku/No6.html#anchor1840406
『●宮崎駿の追悼文
 さて、その手塚さんが情熱の人生に幕を下ろしたとき、マンガ評論誌「コミック・ボックス」では大々的に追悼特集をやった。そこにこんな文章が掲載された。
<手塚さんの特集だそうですが、悼む大合唱はたくさんあるだろうから、それに声を揃えて一緒に大合唱する気は、ぼくはないです。(中略)
 アニメーションに対して彼がやった事は………』

以下は逝って読んでくれ。




57 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 04:52
彼の、いつの時代でも面白い漫画に出会うと
それを追い越そうと躍起になる姿が
とても好きでしたが…アニメに限っては
彼がやらなかったらもっと改善されてたかもしれないんだよなあ…
リミテッドあにめの功罪ですね…

58 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/23(月) 05:46
そういえばまんだらけが2月9日を祝日に!ってゆ署名運動
をしてたよね
いまでもやってる?

59 :魁!名無しさん :2000/10/23(月) 05:52
祝日になるといいなあ。2月11日が祝日だから三連休になるよね、この場合(コラ)

60 :無名選手@投げたらアカん! :2000/10/23(月) 06:39
現代日本人の中〜若年層文化の根底にあるのは間違いなく漫画である。

彼が文法を作り上げてくれたから
後続の爆発的な発展が出来たのだ。

彼がいなければ、日本の現代史は同じ歴史ではなかった。
日本人の感性のポテンシャルを底上げした一人の天才に乾杯。
漫画万歳。手塚治虫万歳。

61 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 06:40
今のオタクに厳しい世の中を見たらどう思うかな?

62 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 06:49
>>60

呉智英(笑)

63 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 07:01
手塚のアニメに対しては本当に批判的な意見ばかりを
目耳にするし、宮崎の手塚怨嗟は今に始まった事じゃなくて、
それこそ80年代は手塚を貶す事でオタクがアイデンティティを
主張するっつー風潮がちょっとあったね。「漫画の手帳」とか
あの近辺(まぁヤツラは宮崎神格化だからね…)。
実際、本人さえ関わらなければ傑作なアニメも何本かはあったが
手塚がらみのアニメは大抵駄作だった。何より、遺した負の遺産
は膨大な物だとも思う。

でも、俺は「おんぼろフィルム」をリアルタイムで見てしまった
んだ。第1回広島国債アニメーションフェスティバルの会場で。
あの一本だけで手塚のアニメ熱やそこに至るまでの幾多のカラ回り
も不問にして、全肯定したくなった。彼がアニメでやりたかった事、
何故漫画の神様とまで呼ばれていてもアニメ作りを辞めなかったのかも、
あの作品を見るとよく判る。本当に傑作。

 しかし、死ぬと判ってたらサイン貰や良かったと不謹慎にも考えたよ。
訃報を聞いて。会場に毎日ずーっとウロウロしてたんだから。神様が。

64 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 07:15
手塚さんってアニオタだよね。
見た目はまともな方だが・・・

65 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 07:54
手塚治虫は映画「風の谷のナウシカ」を見た時にもすごく悔しがった
そうな。自分が出来なかった事をやりやがった、と。
宮崎駿も宮崎駿で、少年時代に「漫画少年」とかに熱中して、自分で
漫画を描いたりして、結局その流れでアニメの世界に来てしまった。
いろいろと愛憎があるのだろうな。

あの二人はどこか似てるのかも知れない。
その世界で最高峰と言われながら、絶対に一線から引こうとしないし、
若手に強烈な対抗心燃やすし。
トップのくせに労働者組合に熱心だし。(宮崎駿のそれは有名だが、手
塚治虫も虫プロでは熱心だった。なにせ、社長の手塚氏が一番働かされ
てたのだ)

手塚がつき
宮崎こねしアニメ餅
すわりしままに食うは…
だれになるんだろね?


66 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 09:55
>65
>だれになるんだろね?
アニオタ




67 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 09:57
直後、公にはまず露出することのない白土三平まで追悼文を発表しているのを
みて、これはホントに只事ではないとさらに深く実感。

68 :名無しno :2000/10/23(月) 11:15
 3のような反応をしてしまう人が出てくるのは、没後11年半(おい、もう来年は十三回忌かよ)
も経つのだから仕方ない事だと思う。
 けど、やはりあの日、新聞の死亡記事を目にしたときの衝撃はどうしても忘れられない。
 なんというか、自分が生まれて以来ずっと築きあげられ、これからも永遠にあり続けると信
じて疑わなかった精神的支柱が、一気に崩れ落ちた思いだった。
 僕も、日本までいかなかったけど「これからの日本のマンガはいったいどうなってしまうん
だろう」ってマジで不安になったよ。それぐらい、手塚マンガは日本マンガの"基本"であり、
手塚治虫という太い幹があったからこそ様々なマンガ家が枝葉を繁らすことができたんだと思
う。

 国民栄誉賞云々の話が出てるけど、別にこんな賞(今回の高橋尚子騒動で、この賞がいかに
いいかげんなものかを改めて思い知らされた)はどうでもいい。それよりも、手塚治虫にはも
う少し長生きしてもらって、ぜひとも文化勲章をとってもらいたかった。日本マンガを文化
として認識してもらうために。


69 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 11:30
その影響が良かれ悪しかれ巨星であったことは万人の認める事実。
宮崎のことは死んでから考えよう。

70 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 11:40
安達哲が、少年マガジンに連載してた「キラキラ!」のトビラ絵で
追悼して描いた手塚治虫の笑顔に泣いた。

71 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 13:20
>70
そうそう、それ憶えてる。
誰もいない部屋の中、さりげない感じで手塚の自画像が額に飾られている絵だった。
このころ安達好きだったから、ああ、この人も手塚の死を悼んでいるんだな、と思
うとちょっと嬉しかった。

72 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 13:34
この年は、なぜか各界の"巨星"とも言うべき人が次々とこの世を去った年だった。
まずは昭和天皇、それから"歌謡界の女王"美空ひばり。"帝王"と呼ばれた指揮者
カラヤンもこの年に他界した。
けど個人的には、やはり手塚治虫の死ほど衝撃を与えたことはなかった。天皇の
崩御にはさほどの感慨を受けなかったのに、手塚の死を知った時には、本当に、
「ああっ、これで昭和が終わった」と実感してしまった。もちろん世代によって
そのとらえ方は違ってくるだろうが、僕は、手塚治虫こそ、戦後日本の文化に最
も広範囲な影響を与え続けた人だと思う。

73 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 13:46
>72
田河水泡も忘れないで

74 :魁!名無しさん :2000/10/23(月) 14:13
週刊少年サンデーにおける、ゆうきまさみの追悼コメント

「『バンパイア』のロックが、実はバンパイアだったのか、ずっとお伺いしたいと
思っていたのですが、これからは自分で考えることにします」

…というのが、なんか泣けた。

75 :ああっ名無しさまっ :2000/10/23(月) 21:32
次は南方熊楠を描きたい、と構想されてましたよね。その何年後かに熊楠ブームが
起きたとき、あらためて手塚先生の先見性を思いました。

76 :ああっ播磨灘っ :2000/10/24(火) 00:32
今はさすがにかげりが出ていますが、一時期アニメよりゲームが大ブーム(今でもか?)
していますが、もしこの時期にも手塚先生が生きていたら、何か新しい方法論が
ゲーム界でも生まれていたりする・・・なんて事は無かったでしょうかねぇ。
 何しろ1989年じゃあスーファミも出ていなかったはず。今みたいにゲームの可能性が
広がっていたら、手塚先生もきっと興味を持たれていたように思うのですが・・・

77 :ああっ名無しさまっ :2000/10/24(火) 04:16
手塚治虫って凄いよねー
今ごろ読んでファンになっちゃうぐらいだからさー

78 :ああっ手塚さまっ :2000/10/24(火) 05:29
手塚において「駄作」と呼ばれてるものでも、
ある程度読めちゃうもんな。

代表作の数からいって、常人じゃない。
子供の頃はジャングル大帝くらいしか好きじゃなかったけど(笑)

79 :ああっ名無しさまっ :2000/10/24(火) 07:30
逝去する一年ちょっと前に出演した「テレビ探偵団」がテレビ番組出演の最後だった
そうです。
後に「テレビ探偵団」では、この時のVTRを追悼番組として放送していました。
偶然録画していたビデオを見てみると、とても元気そうで、あと一年ちょっとの命
とはとても見えませんでした。
私の個人的思い出としては、券が余っていて、たまたま見に行った第1回の広島国際
アニメーションフェスティバルに手塚先生が参加されていて、アナウンスで先生が
受付に呼出をうけたとき、友達と一緒に近くまで見に行ったことが思い出されます。
人生ただ一度の、手塚治虫 生体験でした。


80 :母を訪ねて名無しさん千里 :2000/10/24(火) 08:01
>手塚治虫氏について「怖い人」と表現してましたが、どういう感じだったのでしょうか?

だって駆け出しの僕の仕事知ってて、僕の送った自費出版のつまんないマンガのこと、ちゃんとおぼえてるんだよ。しかも、低姿勢で質問までしてくる。これは一見美徳だし感動するけど、物すごい警戒心や嫉妬心、神経過敏、自意識過剰も裏腹にある。それも含めて物すごい魅力のある人なんだよ。でも、絶対必要以上に近づいちゃいけない人だって思った。

夏目房之助スレより転載


81 :名無しの子守歌 :2000/10/24(火) 11:52
>48
そのエピソードは「巨人の星」に対してだったと僕も記憶しています。いずれ
にしろ当時の梶原作品に対してですね。
多方面のジャンルに傑作をものした手塚治虫だけども、スポーツマンガだけは
どうしても描けなかった、というかスポーツの面白さ自体を理解できなかった
ので描きようがなかった、と聞きました。

本当に最後の最後まで巨匠ヅラする事を嫌い、マンガ界の第一線、最先端でい
ることにこだわり続けましたからね。自分が理解できないものに人気があるこ
とが許せなかった――というより心底恐ろしかったのではないでしょうか。
最初のライバルとも言うべき福井英一(「イガグリくん」)に対しても、作中で
ついつい敵意を剥きだしにして相手の怒りを買ったのと似ていると思います。

石森章太郎や大友克洋に対するライバル心はこれとは違い、自分と同じ土俵で
自分より優れた表現をする者に対する嫉妬を含んでいるんじゃないでしょうか。

僕は時々想像するのですが、手塚がもう少し長生きして「寄生獣」を読んだら
どんな反応をしたでしょうかね。自分がこれまた終生こだわり続けた"メタモル
フォーゼ"をあのように見事に描き、かつ非の打ち所のないSFを作り上げた様
を見たら…絶賛したか、それともやはりライバル視したか...。


82 :優馬 :2000/10/24(火) 12:27
>>81
猛然と嫉妬して、断固新しい作品を描いたと思う。
何度も「自己否定的変革」を経て、常に現役であり続けた手塚の「業」は、彼に
大家という立場に安住することを許さなかった。
没後、奥様が書かれた伝記を読んで、泣いた。(すまんタイトルを失念した)
手塚家の子どもたち(真たち)が「W3」の裏番組だった「ウルトラQ」を見たが
っていたのを奥様が「パパの番組を見ようね」となだめていたところを手塚に見ら
れて「見せてあげなさい!」と非常に厳しい表情で厳命されたというエピソードに
表現者・手塚の矜持と凄味を感じた。(「天才の妻」というお仕事の大変さも。)
死の床の病床でも「ガン患者の気持ちがわかった。良いストーリーが出来た!」と
ネームを切っていたという話は、鬼気迫るものがある。死なないで、その作品をも
のにしてもらいたかった・・・。

83 :ああっ名無しさまっ :2000/10/24(火) 13:28
1989年2月9日。
もう10年以上前なのに、日付だけで何の日だか分かる人がこれだけいるっていう
のはちょっと感激ですね。
もちろん、僕も、どうしても忘れられない日です。


84 :名無しの子守歌:2000/10/24(火) 16:10
>82さん。
>>猛然と嫉妬して、断固新しい作品を描いたと思う。

あ、そうそう。言葉が足りませんでした。
手塚のすごい所は、新しい才能を嫉妬しつつも決して相手を貶める方向には
いかず、それをバネに「もっとすごい作品を描いてやるぞ!」とプラスの方
向に持っていき、それを実現させたことですね。
むしろ、嫉妬した後には必ず新境地を拓いてみせた。それなくしては「45年
間第一線にい続けること」は不可能だったでしょう。

「W3」の話は僕も読みました。過去の栄光は子供にはまったく通用しない。
今、その時の子供に本当に面白いと思ってもらえるマンガを描かなければ…
という意気込みがこのエピソードからも伝わってくるようです。

最も、最晩年はさすがに「子供マンガ」としてキツくなり、あがいている様
が露骨に見えてしまいましたが...。その分、成年向けの作品で成熟した筆
さばきを見せ、第一級の力を最後まで保ち続けていました。

85 :優馬:2000/10/25(水) 03:21
「貴方の最高傑作は?」と聞かれて「ザ・ネクスト・ワン」と答えたのは確かチャッ
プリンだったと思うけど、手塚治虫も同じようなスタンスの作家だったと思う。
もしガンの病床から生還できていたら、すごい作品を描いていたに違いない。
手塚はそれができる人だった。
一読者としても、その「ザ・ネクスト・ワン」を是非読んでみたかった・・・。

86 :ひもとひとし:2000/10/25(水) 22:56
遺作となった「グリンゴ」は、まだ物語の序の口で終わってしまったこともあり、
まともに評価されているのをみたことがないが、常に前作をしのぐ境地の開拓を
めざした手塚先生の志の高さに打たれる、凄まじいまでの野心作だと思う。私の
場合2月9日の訃報を聞いて、ショックとともにまず頭に浮かんだのはこの作品
のことだった。未完に終わってしまうのが無念でならなかった。

87 :ああっ名無しさまっ:2000/10/25(水) 23:16
いろんな事があった年だな。同年6月4日、天安門事件。
M君事件もこの年じゃなかったっけ?

88 :72:2000/10/26(木) 09:34
そうか、宮崎事件もこの年だ。
ということは…「おたく」なる言葉が世間一般に浸透したのもこの年なんだな。

89 :名無しの子守歌:2000/10/27(金) 10:13
マスコミの追悼報道と言えば、どうしても忘れられないのが没した翌日の
朝日新聞の社説。
よもや朝日があのような追悼文を書くとは思っていなかったので、嬉しか
った。
手塚治虫の日本文化における存在の大きさを端的な文章で著した名文だっ
たと今でも思う。

90 :ああっ名無しさまっ:2000/10/27(金) 10:40
けっこう有意義なスレになってるのにもったいない。
よいしょっと。

91 :ああっ名無しさまっ:2000/10/27(金) 15:29
手塚治虫が生きていたら、90年代の混乱と新世紀を迎えてどんな作品を描いたかと
ついつい考えてしまう。
偉大な作家というものは、作品のみならず作家そのものも一種の「作品」なんだね。
薬害エイズ事件なんて、絶対反応していただろうと思うのだが。

92 :ああっ名無しさまっ:2000/10/27(金) 18:26
うん。そういう事考えると、手塚治虫の死は早過ぎたよなぁ…と思う。
存命なら、きっと今でもバリバリ現役で漫画描いてるんだろうな。

93 :ああっ名無しさまっ:2000/10/27(金) 20:04
もうかれこれ十数年、「グリンゴ」の続きが気になるよ〜
なんちゅう場面で引いてくれたものか、手塚先生〜
ドブの中でも前のめりって人だったんだなあ。
しみじみ思う。


94 :ああっ名無しさまっ:2000/10/30(月) 13:41
デビュー40周年の頃「あと40年、100までマンガを書く」なんて意気込みを語って
たんだよなぁ。
まあ40年は無理としても、半分の20年は絶対にやってくれると思ってたのに・・・。

60歳だもんなぁ、早すぎたよ。

95 :ああっ名無しさまっ:2000/10/30(月) 15:33
>>88
二人の「宮崎」が脚光を浴びた年。宮崎駿がつとむ青年についてどう思うかとマイクを
向けられ顔がひきつっていたのを思い出す。「アニメはやっぱ、ミヤザキだよな〜」と
大勢の前で叫ぶ、まわりが一斉に引く、というギャグを仲間内でやったのもいい思い出。


96 :名無しの子守歌:2000/10/31(火) 10:59
>>88
その数年前から「おたく」という言葉はあったけども、かなり限られた範囲
でしか通用しない"若者言葉"(これも死語だな)だった。
そこに宮崎事件が起き、犯人の異様さを表す言葉として用いられたのが「おたく」
であり、一世を風靡したこの事件と共に「おたく」という言葉は強烈なマイナス
イメージを伴ってまたたく間に一般化した。
「おたく」は最初から重い十字架を背負って広まった。
手塚がこの世を去ったのと「おたく」の一般化は別に直接の関係がない出来事
なんだけども・・・なんか象徴的だな。


27 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.02 2018/11/22 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)