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R・A・T・P公式スレッド@この人を見よ!

1 :Rage Against The Philosophy:2001/07/02(月) 07:24
どうして俺はこんなに偉大なのか・・・

2 :Rage Against The Philosophy:2001/07/02(月) 07:28
毎日あまりにも暇なので公式HPならぬ公式板を立ち上げさせてもらいました。
簡単に自己紹介(読みたくないひとは無視でGO!)をさせてもらうと
哲学板という学問系でも超辺鄙な板の固定。
でもここではクソレスしかしないちゅもり♪

3 :Rage Against The Philosophy:2001/07/02(月) 07:32
さっそく寝ますヌヌ・・・

4 :吸血鬼ゴケミドロ:2001/07/02(月) 08:33
レイジアゲンストザマシーンのFANですか?
私は漫画家を目指して大学の勉学には全く励んでいない
21歳の大学生をやっておるゴケミドロと申す者である。

5 :Rage Against The Philosophy:2001/07/02(月) 23:21
勿論僕のHNの由来はレイジ〜から来てまして
レイジも聞きます。だたし1stだけ。
漫画家?ほう!どんな漫画でしょうか?
最近お勧めの漫画ありますか?
僕は基本的に最近の漫画雑誌はゴミ同然というスタンスです。
サンデーマガジンジャンプヤング系全て産業廃棄物ですなぁ。

6 :Rage Against The Philosophy:2001/07/03(火) 01:29
さびしいのであげてみよう

7 :Rage Against The Philosophy:2001/07/03(火) 07:54
『言語研究とフンボルト』(泉井久之助著、弘文堂、1976年)を読む。言語学者にしては読ませる文章である。なかなか面白い。
[簡単なInhalt]
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767-1835)
1791年『国家憲法論』
1792年『国家権能限界論』(1851年に出版)・・・→J・S・ミルの自由論(1859)
1797-98『ゲーテのメルマンとドロテーアについて』
1810年ベルリン大学開学(初代総長はフィヒテ)

8 :Rage Against The Philosophy:2001/07/03(火) 07:55
当時の知識人は皆そうであろうが、フンボルトもまた教養人である。教養人は先ず何よりも構築する。何をか。理想的な人間像をである。今日このような試みを敢行するものは少ないか、或いはよほど楽天的であろう――もしくは最も極端なペシミストが密かにこれを狙うだろうか。ともかくも情報が余りにも多すぎる。だから浅田彰のように先ずもって整理しようとする感性は、現代においては非常に健全な生理的本能かもしれない。
生の事実性における物語的負荷性というか、要するに知らず知らずのうちに内部に蓄えられた知的経験なり知識は、当人の人格的な存立を誇る証左であるのではなく、むしろ重圧であり、自己把握を分裂症的な隘路に誘う装置なのである――これがいわゆるポストモダンの表徴だ。

9 :Rage Against The Philosophy:2001/07/03(火) 23:41
[メモ・引用]
○ 19世紀初頭・・印欧比較言語学の成立
○ 代名詞は最も抽象的な品詞であり空間概念を含む。三人称と指示代名詞との繋がり(もっとも言語学的にはニ人称と三人称とが近接している場合が多い)
○ 比較研究の導入・・ヴィーコー(1668-1744)
○ ヤコービー(1743-1819)、ハーマン(1730-1788)、ヘルダー(1744-1803)→1772『言語起源論』
○ フンボルトの「一つの言語」の理念はポール・ロワイヤルの「一般文法」とは異なる。
『言語は常に人間の主観性の模写であろうとし、思惟は音形にはいってきて、はじめて客観的に認識されうるものとなる。主観と思惟は、言語によって客観化されようと待っているのである。』(p337)
『言語は人間性の全体から発出し、これと自然とを媒介するものであるから、それ自身も完全有機体と見られなくてはならない。』(p340)
『個々の具体的な言語の活動においては内的言語形式は常に欠けることができない。言語のあらわすところは決して対象そのものだけではなく、常に言語産出活動における精神を通じて自発的に対象に対して向けられた概念だからである』(p345)

10 :Rage Against The Philosophy:2001/07/04(水) 03:32
「言語と対象世界の構築」(E・カッシーラ『シンボル・技術・言語』篠木芳夫他訳、法政大学出版局、1999)を読む。
先ずカッシーラはいわゆる模写説(Abbildtheorie)を批判する。この批判自体は奇抜なものでも何でもなく、イギリス経験論批判に始まるカントのコペルニクス的転回以来、むしろドイツ哲学の伝統である。主観は客観的世界を模倣するのではなく、むしろ主観こそが客観的世界の(認識論的な可能性の、とカントなら付け加えるであろう)根拠なのである。ドイツ観念論のこの系譜にはフンボルトの言語論も含まれるであろう。「フンボルトにとっての言語の差異とは音声や文字記号の差異ではなく、世界の見方の差異なのです。」このテーゼは互いに対称的なパースペクティブで捉えられよう。一方ではそれは、言語そのものが世界形成の担い手であることを主張しているが、それは他方において、思考の言語依存性(Worthaftigkeit)を意味している。この場合言語は、むしろ思考の自由な働きを制限する機能を果たす。かくして、言語を言語によって捉える際の背理がここに現出するわけである。
 ・・・などと書いているとフリーズしてしまった。もう繰り返す気力はない。
ただひとこと。主観と客観という出来合いの二項の「間」をカッシーラはいともたやすく跳んでみせるが、本来この「間」にこそ、言語という存在の持つ一種の神秘性があるのだ。表象世界、想像世界、そして芸術といういかにも伝統的な哲学らしいストーリーを嬉々として踏襲するカッシーラには、言語という実体のない存在がいかにして世界そのものを捉え牽引するか、この目に見えない跳躍に驚いている暇はない。命名への「狂気」はむしろここから発現するものであろうし、それはまた、ハイデガーのいう現存在と眼前存在との間にある道具的存在への、つまり技術への問いを促さずにはいられない。この技術はまったく人間的な、或いは近代的なものであるかもしれないが。
 それにしても眠くなる文章だ。哲学が教養である必然性が終焉を迎えていることを、改めてまざまざと感じさせる

11 :Rage Against The Philosophy:2001/07/04(水) 03:34
ドキドキあげ

12 :Rage Against The Philosophy:2001/07/05(木) 05:13
ハイデガー『芸術作品の起源』を読む。
ダラダラ読むのは嫌なので問題意識でもメモっとくとそりゃ何といっても芸術作品のが持つ魅力っつーの、誘惑っつーの、その「起源」だわね。
芸術作品は元来(あくまでも理論的にはね)商品ではないから、交換価値っつーか経済的・社会的で間主観的な構造はもたないはずなので芸術には商品のようなテクネー(技術知)はないと思うわけよ。何ら有用で価値あるものではないからね、芸術は(しつこいようだがあくまで理論的には)。で問題なのは芸術の価値っつーの要するに「フェティシズム」の起源ね。どこにあんねん?というわけ。

13 :Rage Against The Philosophy:2001/07/05(木) 08:13
[メモ]
○ 1935年講演
○ 思索そのものがフェティシズム?
「作品の現実性・・自然に直前に在るということ・・」「物的性格・・もしこの物的性格がないとしたら作品とは何であろうか」「美的体験はこの物的性格――事実として在ること――に立ち寄らない」だが通説によれば芸術作品は象徴や寓意という形で、単なる物的存在以上のものである、が「芸術作品における物的性格とは下部構造のようなものであって、その中にまたその上に別のものすなわち本来的なものが築かれるのだ、と。けれども、芸術が本来その手仕事にあたって作成するものは、作品におけるこの物的性格ではないのか」マルクス?だがこの説は後で否定される。明確に。
「物とは何か」ずいぶんバカ正直な論説である――。
物・・ヒュポケイメノン、基体、現前態(Anwesenheit)→実体、翻訳の、つまり言葉のこの変更はそのまま経験の変容でもある。
「物の第一の解釈が物をいわば我々の体から全く遠ざけ、余りにも遠くに離しておきすぎる一方、第二の解釈は物を我々の体に余りにもひどく近づけすぎる。」
物<道具<作品(芸術)
作製されたものとして表象するような傾向、伝統的な解釈傾向。
過剰に対して?「ほかならぬ純然たる物のこの自己抑制こそ、このようにそれ自身のうちに安らい何物に対しても急ぎたてられないということ、これこそまさに物の本質にふさわしいのであろうか。・・・物の物性を言明出きるのは、とりわけ困難であり、稀有なことである。このことの紛れも無い証拠となるのが、概略を示した物性の解釈の歴史である。」

14 :Rage Against The Philosophy:2001/07/07(土) 03:03
眠い。。。
枝豆食いながらながら勉強。

15 :Rage Against The Philosophy:2001/07/08(日) 06:37
先日祖母が電話してきた内容は失笑モノだった。俺が交通事故を起こす夢を見て心配したらしい。だが今度は祖母が死ぬ夢(正確には違うが)を俺が見たとなりゃこれは笑えない。自分が分からないというのはホントウに恐ろしい。
どんな夢か、ある意味ユーモラスとも言えるか。葬式の場面である。祖母はまた死んではいない、どうも心臓の持病があるらしく、もうじき死亡、という予定で(その割には歩きまわっていなかったっけ)周りの皆は葬式の準備をしている。
ところが祖母はなかなか死なぬ。しぶとい。周りはだんだん焦ってくる(これが面白い)。葬儀の予定が狂っていることを危惧しているのであろう、おいおい祖母の容態には無関心か?
とまぁ変な内容の夢だった。

16 :Rage Against The Philosophy:2001/07/09(月) 07:43
本日のメニュー
○風俗に逝く予定が先走りパソコンのエロ映像で一発抜く→欝
○起きたら五時過ぎ、風俗に逝く気失せる→欝
○マルクスの『資本論』読了の予定が完遂できず→欝
○メル友に本名ばれる→( ̄□ ̄;欝
さあベッドで逝こうじゃないか・・

17 :Rage Against The Philosophy:2001/07/10(火) 06:59
986年現代思想「特集=現代ドイツの思想」における三島・今村対談を読む。
今村氏はズイブン謙虚な語り口である。ハッキリ言えばどうだろうか「サルトル、メルロ・ポンティ、レヴィナス、リクール、デリダ、フーコー、ドゥルーズ、レヴィ・ストロース、ソシュール、バルト、アルチュセール、ラカン、ボードリヤール、クリステヴァ、バダイユなどの戦後フランス思想に対して、ドイツにはガダマー、アドルノ、ハバーマスしかいませんなぁハハハ」と。
フランスでは哲学・思想は決して象牙の塔の専売特許ではなかった。このことが、諸学を横断的に結合させるフランスの人文科学のダイナミズムともなっているのではないか、と想像してみる。

鎌田哲哉「ドストエフスキー・ノートの諸問題」を読む。
[メモ]
○言葉の魔術的性格(『アシルと亀の子U、W』)マルクスの『資本論』に由来するらしい。
[感想]
面白かった・・

18 :Rage Against The Philosophy:2001/07/11(水) 08:59
「吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。しかも、もし言葉がその人心幻惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。」(『様々なる意匠』)
 鎌田の問題意識がいななる形でこの「言葉の魔術的性格」へと向かうのかを追跡する前に、僕はかつて柄谷の『マルクスその可能性の中心』を呼んでいく中遭遇した小林の別の言説を思い出した。
「商品はこの世を支配するとマルクスは語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品はこの世を支配するという平凡な事実を忘れさせる力を持つものなのである。」(同上)
私はここで止まってしまった。今でも私の「脳中」には、絶えずこの小林の言葉が響いている。人間にとって商品とは何か?簡単である、それは生存に不可欠なものである。精神的生存にとってもそうであろう。そしてこのことがなければ、つまりは文学や思想がひとつの「人心幻惑の魔術」として心を捉えなければ、文学であろうが思想であろうがやる必要などあるはずもない。要するに言葉の神話的な誘惑にころりとイカれなければ、短い一生をただの文字の羅列や集積に捧げる決心などつくはずもない。この意味で文学者は、一度は骨の髄まで「疎外」されなければなるまい。だがこの同じ文学者が、他方で言葉の魔術的性格の限界を悟るとは、つまりそれを「たかだか文字ではないか」と観念するまでに達観するとはいったいどういうことであるのか。おそらく両者は、前者から後者へと漸次的に移行するのではない。それは同時的であり、従って「分裂的」である、と一応は言えるであろう。批評家小林の本質が、この一見矛盾した志向の――両立ではなく――同時性に在るのは明らかである。冒頭の引用は、彼の批評原理そのものなのだ。
こうした分裂的意識の類似はマルクスにも見受けられる。例えば彼は言う。

19 :Rage Against The Philosophy:2001/07/11(水) 09:00
「あらゆる売りが買いであり、またその逆であるのであるから、商品流通は、売りと買いの必然的な均衡を含んでいるものであるというドグマほど、とんまな考えはあるまい。もしこのことが、現実に行われた売りの数は買いの同じ数に等しいといおうとするのだとすれば、これは内容のない空しい言葉である。だが、問題は、売り手が自分自身の買い手を市場に連れてくるということを、証明することにある。」(『資本論』)
「国民経済学者は我々にいう、起源から見ても概念の上からみても、労働の全生産物は労働者に属するものだ、と。しかし同時に国民経済学者は我々に言う、現実においては、労働者の手に入るのは生産物のうちの最小部分、まったく必要不可欠の部分だけなのだ、と。」(『経済学・哲学草稿』)
 マルクスは一見すると小林の全く逆の志向を見せる。「商品はこの世を支配するという平凡な事実」、この必然的な均衡に彼は執拗に対抗する、しかもそれは、言葉が与えるまやかしの事実を、言葉自身によって立証せしめることによってである。言葉はそれ自身のうちにパラドックスを含むことによって、あの「平凡な事実」の均衡を破綻させるのである。とはいえ、ヘーゲルとともにマルクスもまた、或る純粋で即自的な自然状態から出発したのではなかった。或る抽象的な力が、人間をその歴史的・社会的な存在へと文節化させたという歴史認識がその出発点においても、またその到達点においても絶えず確認されねばならないとしたらどうか。いかにヘーゲルの思惟が漸次的で弁証法的なベクトルの上昇を描こうと、到達点の予描はその出発点において既に見受けられねばならない。神話の持つ呪術的性格が、理性それ自身の本質として洞察されることは、ヘーゲル移行のヘーゲル主義者であるアドルノが典型的に示している所であった。マルクスの商品批判は、マルクス主義という商品を生み出した。もっと巨視的に考えればどうであろうか。宇宙開闢以来物質の絶対量が無変化であるとすれば、わざわざ均衡の原理を転倒させようとする思想の「魔術性」こそがとんまな存在ではないか、と。

20 :Rage Against The Philosophy:2001/07/11(水) 09:00
さて一方で小林はどうか。マルクス主義もたかが一商品であると喝破したこの自意識の分裂的ベクトルは、マルクス同様に再び言葉へと回帰する以外に道がないように思われる。従って鎌田が、小林が何を書いたかではなく如何に書いたか、そしていかに書かなかったかという点に注目するのは、或る意味当然である。言葉に対する両義的で分裂的な経験を経たとき、そこには何がしかの自覚的な忘却が挿入されるとでも言うのだろうか。
鎌田は「小説はやってしまった後に書くものだ」という小林の言葉に注視する。実際、全てはこの事後性にこそ掛かっているのである。観念が描く絶対の可能性とその絶望があり、その見かけの絶対性の不毛さを眺める現実の眼がある。小林はこの両者の間をジクザクに動く。鎌田はそれを「「何を意識しているか」に固執する外界に疎遠な固体の現実を記述する一方、同時に固体を貫徹しそれを滑稽化する「いかにふるまうか」を記述しなければならず」と表現している。悲劇とともに喜劇を描くとでも言うのであろうか、言葉の両義性を捉える――捉えるのではない、厳密には!――ためには、こうした分裂的著述の実践それ自体が重要である、とでも言うのであろうか。(続)

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 14:38
http://vs8.edgesoft.co.jp/SpeedChat/users/s0010294/index.html

22 :Rage Against The Philosophy:2001/07/13(金) 03:51
初めて風俗逝ったが
全然気持ちよくなかった。
むしろ醒めすぎた俺のナニの萎え具合を心配して
心の中で「はよ逝け」とポツリ
オナニー道を極めた俺としては知性ばかりか性欲においても
この世に俺以上の存在のいないことを再確認させられた。
ちなみにオナニーは
綿のシャツでチンコをくるみ、多少こする程度でやるのがベスト。
単純だろ、ふははは。

23 :Rage Against The Philosophy:2001/07/15(日) 23:31
ジミー・ペイジだサルベージ♪

24 :Rage Against The Philosophy:2001/07/16(月) 20:42
John・R・Searle:Speech Acts,an Essey in the Philosophy of Language,1969を読む。
(もち邦訳、坂本百大他訳、けい草書房、1986) 

25 :ネオンサイン:2001/07/16(月) 20:43
すごいね

26 :みく:2001/07/16(月) 20:47
みくにはちょっと
難しいオハナシみたいだね。
ん〜〜

27 :Rage Against The Philosophy:2001/07/16(月) 21:16
[メモ]
○1959オkックスオードにおける博士学位論文
○J・L・Austin,P・F・Strawson,Noam Chomsky

28 :Rage Against The Philosophy:2001/07/18(水) 07:27
あげぞう!
つーかかなりさびしい・・・

29 :Rage Against The Philosophy:2001/07/21(土) 06:10
サール『言語行為』を読む。
言語と世界との関係を考える上では、二つの互いに相反した極端な立場を考えてみることが必要である。まず@言葉を話すことは、話者が自分の言いたいことを心のうちで考え創造し、それによって言葉を創出することである。これはいわば、話者の自由意志という前提にもとづいた言語発生論の立場、と理解できる。次にA言葉を話すことは、その意味が共通了解的に共有された者同士が、状況にあわせて一定の単語を組み合わせることによて、その状況を確認する行為である。これは制度としての言語という立場から、話すという行為の言わばオートメイション的なレスポンスについて述べている。
この二つの立場は、それぞれ言語の発生における創造性と制度としての言語の既成的性格ということから、自由(将来)と必然(過去)という大きなテーマへの展望を示したものであるが、実際の言語行為(現在)においてはこの二つの立場がどのように連関しているか、ということを確認する必要がある。
サールの立場はある意味、この両者が折衷的に折り重なるような場面から出発しており、またその域を超えでていない。言語は何らかの「・・べし」という当為を強制する力(foece)をもっており、こうした力によって存在論化された言語行為が錯綜し、有意味的な理解が形成されている場面、あるいはそうした事実、これは状況と呼ばれる。サールの主張の積極的な側面は、これまでの言語哲学がこうした状況、あるいはそこにおける言語行為を適切に記述してこなかったことであるが、そもそもそうした状況の必然性とは何か、ということについてはサールは議論をしない。状況の記述に関するものではなく、例えばそれが、或るものがそう呼ばれることの根拠の問題、つまり固有名の「起源」に関わるものであるならばなおさらである。
サールによれば固有名とは、それについての無際限の記述を誘発してやまないものであり、従って問題は、固有名の指示とその述定に関わるといえる・・
ともかくサールによれば、すべてあんばい良くいってるのである!まぁよい。根拠志向の話ではないのだから、サールの抑制の効いた議論に満足しなければなるまい。ともかく今一度、サールとその周辺の議論も含めて考察すべきである。
サールとは対極にあるようなカッシーラの言葉を付す。「フンボルトは、言語の真の定義はつねに発生的(genetisch)定義でしかありえない、と語っています。我々は、言語を理解するために、言語の産物(Gebilde)にとどまっているのではなく、形成作用(Bilden)の内的な法則を探らねばならないのです。――すなわち、われわれは言語を、出来あがったもの、作られたものとして考察してはならず、言語を生み出すはたらき、永遠に繰り返される精神の活動として考察しなければならないのです。」

30 :吸血鬼ゴケミドロ:2001/07/21(土) 06:17
>>29
だよね。

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